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月と烏の関係については、ケレーニイが触れていることに以前の記事で少し触れました。 さらには、「月はその存在様態によって、無数の現象や運命を一つに結びつける」、「運命の糸を紡ぐモイラたちは月の女神である」(エリアーデ著作集2『豊穣と再生』 第4章 せりか書房 久米博訳)などの論述も面白いですし、紡ぐ→回転するという言葉の成り立ちも(正しいのかどうかは知りませんが)紹介されています。 烏(カラス)は太陽神、あるいはその使者とされることが多いようです。不思議なことです。多田智満子氏が引用しておられる、『捜神記』にあるように、 烏者棲太陽之精 ・・・云々 烏の漆黒が光を連想させるということでしょうか。光と闇。これはよく対比させられます。しかし現代の闇を知らない私たちがどれほどその意味を深く意識できているのでしょうか? 私とて例外ではないでしょう。しかしいささかはかつて仕事の関係で、山と海の境界で過ごし、夜の漆黒の闇の中では自分の手も見えない。10m先の用ある場所に行けないことさえ何度も経験しました故、真の闇では目が慣れれば見えるようになるなどというものではないことを少しは知っているつもりです。 ■真の闇では小さな点のような光がいかに眩く輝くか、ましてや月明かりでもあれば文句なしです。 ■光と闇、といえば、過日の記事でギリシャの光の横溢した世界が闇を思わせたことを書きました。 小説家、小川国夫がその短編集『海からの光』の後記でこう書いていることが昔から気になっていました。 ・・・かつてシシリー島南岸の町、アグリジェントへ行った時、広い視野に、よくもこんなに、と思えるくらい陽のが光が降り注いで、空間は全く透明だった。後年その時のことを「エンペドクレスの港」という題で書いていると、「頂点に達した明るさの中心に、彼は闇を見るような気がした」という文章が浮んで来た。考えたわけではない。云々 私なりにエーゲ海での島々で、それを実感したように思う次第。何も見えない闇と、横溢した光。 ■さて、そのようなことはこれくらいにしなければ先へ進めません。しかし、ここで、詩人・鷲巣繁男氏のエッセイからシューベルトについて引用しておくことは無意味ではないと思うので、そうします。 まずは、 人々はミュラーの詩によるあの名高いシューベルトの『冬の旅』といふ歌曲集により、一層平易で通俗的な心情を汲みとるであらう。それがチクルスを為してゐることも暗示的である。旅は終結しない。それは永久運動である。(『ポエーシスへの道』〜「放浪――謎への問ひ」) ミュラーが通俗的かどうかは私には何とも言えませんし、異論のあるところでしょうか。 しかしほとんどシューベルトについて書くこともない詩人が、永久運動であると述べているのが面白いのです。 鷲巣氏の数少ないシューベルトに関わる記述は他には、『白鳥の歌』レルシュタープの詩による「遠い国で」についてがあります。 ・・・これは寧ろあらゆる条件から離れた「さすらひ」の純粋状態である。十字軍の戦ひに敗れたぼろぼろの戦士であらうと、氷雪の森林に咆哮した移動の集団であらうとも、それがゲルマンの族であらうと、スラヴの群であらうと、更には壮大に地を海を渡つたサラセンの隊伍であらうとも、彼等の脳裏をよぎる共通の感慨であつたかもしれない。いや、この灼熱の肉体にとどまらず、魂こそ、あこがれ、さまよふものではなかったか。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 以上が詩人鷲巣翁が書いたシューベルトについての全てであろうと思います。 |
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