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第一部第一曲「おやすみ」を聴く限り、青年は階段を下りていっているように聞こえます。上昇の旋律もあるとはいえ、全体的にはそうではないでしょうか、イメージとして。もちろん階段など存在しているわけではありませんから、あくまでイメージの問題です。しかし確かに彼は迷宮の世界への「階段」を降りた、そんな気がします。 第二部「道しるべ」以降に話を進める前に、もう一度螺旋的に顧みます。 ■私は第一曲の「月・月影」に注目しました。詩句としてはそれ以上なにも月影について語られることはありません。渡辺美奈子氏はご自身のサイト(http://www.ne.jp/asahi/minako/watanabe/)やご論文で、詩人ミュラーの詩句の天体への接近について書いておられます。 私の場合はただ、「月」というものの存在感に打たれて書いているだけですので、恥ずかしいかぎりですが。 ■例えば月といえば、私は新約聖書の捕らえられる直前のゲッセマネの園での、キリストの孤独な祈りの情景を思い浮かべるのです。最も「文学的」なのは良くも悪くもルカ伝でしょうか。弟子たちを伴っていったところ、 ・・・其処に至りて彼らに言ひたまふ『誘惑(まどわし)に入らぬやうに祈れ』 かくて 自らは石の投げらるる程かれらより隔たり、跪づきて祈り言ひたまふ、『父よ、御旨ならば、此の酒杯を我より取 り去りたまへ、されど我が意にあらずして御意のならんことを願ふ』 時に天より御使いあらわれて、イエスに力 を添ふ。イエス悲しみ迫り、いよいよ切に祈り給へば、汗は地上に落つる血の雫の如し・・・ どこにも月影の描写はありません。しかし魂をこめて祈るイエスと脇で眠りこける弟子たちを映し出しているのは月の光であるという私のイメージはどこから来ているのでしょう。 私がイエスの生涯を描いた映画で唯一気に入っている、カザンザキス原作の『最後の誘惑』のせいでしょうか。 因みに弟子たちは眠りこけており、孤独な祈りを捧げているイエスの姿を誰が目撃して、伝承としたのでしょう。 残念ながらそのあたりのことについての考察は読んだことがないので、誰かご存知なら教えてください。 ■さて、私はイエスのことを語ろうとしたのではありませんでした。ゲッセマネで彼を照らし出していたかいなかったかもわからない「月」のことを言いたかったのでした。 月が聖母マリアとも繋がることはさらに想像を促しはしますが、今はとめおきます。 もっと、できれば根源的にあの月の光がかもし出す妖しいような、しかし清純な輝きに導かれて考えたいのです。 * * * * * * * * * * * * * * * ■ついでに書きますが、「月」といえば、面白い話があります。 エリアーデの「月と月の神秘学」で、月の使いとなる動物たちが人間に「ことづけ」を伝える神話が多くあり、アフリカにはざらにあると述べています。で、その使いは間違って人間にことづけてしまうのです。 そのことは、熊楠翁も「西アフリカのアシャンチー人伝うるは・・・」として紹介しています。ただし、月の使いではありませんが。 それによれば、せっかく人間たちと幸福に暮らしていた「上帝」がおばちゃまたちが「あっちへ行け」と言ったばかりに天に登ってしまったのですが、「上帝」はとても親切で、人間にことづてを与えて使いをだしました。 曰く、今後人間は死んでしまうけれど天に登ってわれらと住むのだ、と。 しかし使いの山羊は途中で道草をくってしまい、しかたなく綿羊を代わりの使いに出したところ、綿羊は、人間は死んだらそれっきりだよ、と誤って伝えてしまった。云々 おおよそこんな話です。 私たちは月からの使いの言葉を正確に受け止めているのでしょうか。いや、逆に解釈しなければならないのではないか、上か下か、右か左か、困ったものです。 |
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