黄葉小説 『トーキー夢譚 Torquay Impromptus 第4曲』
「オサム、日本に帰る前にロンドンに立ち寄るんだろう。ロンドンではまるでオフィスにいるみたいだったぜ」
何度も聞いたホセの台詞だった。
「パブに入るなり、カウンターにいた客がぼくをじろじろ見てくるんだ、こんなふうに」
修の頭の先からつま先までをホセは、体を揺らすのを止めてゆっくり目で撫ぜてみせた。そばで見る彼は光と影の織りなしてハンサムだった。修から遠くに転じた目は相変わらず濡れたようで、女の子達にモテるはずだった。再び体をくねらせはじめたホセに、
「それは君がハンサムだから目をひいただけじゃないのか」と言うと、
「そうじゃない。ぼくらは昼飯だって二時間くらいかけてゆっくり食べる。フルーツだって山盛りだ。イギリス人とぼくらは全然違うんだ。席に戻ろう。この曲は嫌いだ」
フロアで踊りながら二人は話していたのだった。曲が変わって、ホセがそう言うのに合わせるわけではなかったが、他にもフロアーから出る人たちがいた。修も席に戻った。スイスから来た秘書だという金髪のヘレネーがビールを飲んでホセを待っていた。首を伸ばした彼女に、ホセは腰をかがめてキスをしてから腰を下ろし、
「面白いな、オサム。今夜はスイスの嫌いなスイス人、スペインの嫌いなスペイン人、日本の嫌いな日本人が顔をそろえたわけだ」と言った。
だが、修の返事を待たずに、ホセはヘレネーと見る者の目に焼きつくようなキスを交わしはじめた。修は苦笑した。温くなってしまったビールは気候が日本と違うせいか、それでもおいしかった。
人気の曲がかかりだし、フロアーは若者達でごったがえしていた。車椅子で両腕を振り上げて楽しんでいる男もいた。
「もうすぐだ。日本へ帰るのは」と修は言い、残っていたビールを飲み干した。
「本当に帰るんのか」
ホセは口をゆがめてそう言ったが、ヘレネーはといえばホセにしか関心はないようだった。
「オサム、さっき嬉しそうにいっしょに踊っていた女の子。ここに呼びなよ。前にもいっしょに踊ってたな。きれいな日本娘だ。だから日本に帰らずにその子と付き合うことにして、ここにもっといなよ」
修たちとは別の英語学校に通っている娘のことだった。
「いやだよ。彼氏がいるに決まってる。それに彼女もそう遠くない日に日本に帰ると言っていた。ぼくなんか眼中にないよ」
ホセが両手を広げて笑った。
「そんなんだから、日本に帰っちゃうんだ。帰ってからどうするの」
「わからない」
「まあ、いいさ。オサムが日本に帰ったら電話(コール)しよう。つまり、お~い、オサム~って海岸から叫んで(コール)あげる」
笑うに値する冗談かどうかわからなかったが、修はとりあえず笑顔を作った。ホセはヘレネーの手をとると、フロアーへと立っていった。修はビールのおかわりをもらいに立った。修に話しかけようとはしないヘレネーを振り返って、彼女といっしょにトーキーにやってきた、秘書三人組のひとり、カトリーネの顔を、ふと思い浮かべた。三人の中で一番大人しい雰囲気の女性だった。こんな所に踊りには来ないのだろう、と思った。それから、別にぼくは日本がきらいなんじゃない。少し逃避したかっただけだ、と思ってみたりした。
週が明け、いつものように学校の廊下で何人かと立ち話をしていると、ホセの明るい声が突然聞こえた。
「次のゲール先生の授業では、ちょっと考えていることがあるんだ」
その言葉を聞いて修にはおおよそ見当がついた。が、デンマーク人の女の子が、こうやって見せるの、と言って、両手を耳のあたりでひらひらさせて目を真ん中に寄せ、舌を思い切り突き出して汚い音を鳴らして震わせた。可愛い顔だけに面白くはあった。
「そんなところだ」と、ホセは言い、さっさと次の授業の教室に入っていった。
授業は、ゲール氏と七人の生徒によっていつもどおりに始まった。授業によって使うテキストが様々で、ゲール氏のテキストは最も薄く、絵や写真が半分以上を占めていた。この日も、ページを指定し、ひとつの写真を示して、ゲール氏は心ここにあらずの顔をあからさまにしているホセをなぜかしら最初に指名した。
「これは何かね、ホセ」
ホセは開いていたテキストを音をたてて閉じ、
「答えたくありません」と答えた。
ゲール氏は小首をかしげて、眼鏡の奥から丸い眼でホセを睨んだ。
「なぜだね」
「ここにいるぼくたちには、先生の授業は意味がないからです」
「意味がない……。どういう意味だ」
ゲール氏が顔全体をゆっくり赤らめ、ふくらんだ。
「そうじゃないですか。毎回毎回何十分もかけて、この写真はなんだ、はい椅子です、ではこれは何かね、はいカメラです、そんなやり取りをなぜ延々としなければならないんですか。とっても退屈です。ご存じなければお教えしますが、ぼくたちは小さい子どもじゃありません」
ゲール氏が眼鏡をはずし、七人を慌しく見回した。
「なるほど。でもそれはホセの意見だろう。どうだい、サラ。君も同じ意見なのか」
例の可愛い顔のデンマークの娘は眉をつりあげて、
「はい。たぶんここにいるみんなもホセと同じ意見だと思います、ゲール先生」
ゲール氏がテキストで机を叩いた。
「君たちは何もわかっていない。私にはちゃんとプランがあるんだ」
そして、どうしてかはわからなかったが、修に助け舟を求めてきた。
「オサム。君はホセとはちがうだろう、君はわかるだろう」
修はホセの顔を一瞬見た。固い顔で修を見ようとはしなかった。
「ゲール先生。残念ですが、ぼくにはわかりません」
ゲール氏はそれを聞くなり、ドアを蹴破るようにして教室を出ていった。ホセが両腕をあげて奇声を発した。
確かにゲール氏の授業は修にとっても退屈だった。しかし難しすぎる授業もあった。オックスフォード大学受験のための何がしかのテキストを使う授業で、指名されても適当に答えてやりすごしてはいたが、日を追うに従って何がわからないのかもわからなくなっている授業だった。修にとっては、それはそれで自分には意味がないな、という感じだった。
修は、問題にされるかもしれないな、と思っていたが、意外なことに、その日以降、ゲール氏は二度と七人の授業には現われなかったし、誰もその説明を聞かなかった。ただ何もなかったかのように別の教師が受け持ちはじめただけだった。
修と廊下でたまたますれ違っても、ゲール氏は目も合わさなくなった。昼休みに生徒たちが談笑している食堂に入ってきても、固い表情で林檎だけを買うとそそくさと出て行くようになってしまっていた。やがてゲール氏の姿は学校から消えた。ホセにそれを気にする様子は全く伺えなかった。 学校からの帰り道、ホセは日本で暮らしたらどんな抗議の声をあげることだろうなどと、修が想像してみたりしながら歩いていると、突然声をかけられて振り返ると、曇り空の下、カトリーナが優しい微笑みを浮べて坂道に立っていた。
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※黄葉(もみぢば)小説とは、小さな赤ん坊の手を形容する言葉からの連想で、ごくごく小さな小説として名づけたものです。
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