辻乃森音楽師  〜シューベルト断想&創作〜  

アクセスカウンタ

zoom RSS ここに在る、ということ。 そして最後の四つの歌…。

<<   作成日時 : 2018/06/06 17:32   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

画像


 何十年も前の話。
 中学三年時に音楽教師からの一言。「毎月配られるクラシック音楽入門のレコードが欲しいか」
何せ金が要るわけで、母親に許可を得て購入。そこで、ディースカウの「菩提樹」を聴かなければ、たぶん私はクラシック入門早々時からドイツ歌曲に惚れ込むことはなかっただろう。
で、ディースカウの「菩提樹」であれ、後々、聴くことになる「冬の旅」全曲、そして「白鳥の歌」など(どれもLPレコードの味わいを今も強く覚えている)であれ、歌曲に耳を傾け、歌詞対訳とにらめっこ。多くの歌詞で、へえ、と感じたことがあった。いや正確に言えば、歌詞を扱う作曲家と詩人の関係とでもいえばよいか……。

 へえ、と私が思ったのは単純なこと。歌曲では当然のようにして、歌詞の詩句や語句がリフレインされていること。それだけのこと。
 でも、と私は今でも思う。
 例えば中原中也の詩の朗読会があったとしよう。
 朗読者は読みながらここぞというところで、詩句を繰り返したりするだろうか。しないはず(あえてそうする朗読会もあるのかもしれないが)。ましてや最終行を朗読し終えたと思いきや、突然、冒頭に戻るなどという技はあるかしら。ないだろう。
 でも、歌曲では、そう、シューベルトではそうしたことが自然に行われる。いや、自然にではないか。当然のように、かな。

 どこかで、自分の詩を作曲家が勝手になぶるのは勘弁ならぬとした詩人もいたと、そこかで読んだ気がするが、どこでだったかは忘れた。

 たとえば、中也の詩も、朗読会ではなくて、創作ダンスの中で「活用」されることがあれば、その時には、詩句が自由に「もてあそばれる」気もする。どうでしょう?

 シューベルトたち作曲家には、かごの中でさえずっている鳥を、かごの外へと招き出し、自由にはばたかせる魔法の杖を持っているに違いない。とは、おおげさか。
 
             *  *  *  *  *  *  *  *  *

 さて、ここで話はシューベルトではなく、リヒャルト・シュトラウスの「最後の四つの歌」に話を飛ばす。
 もちろん、その曲自体も味わいもするけれど、ここでは吉田秀和の音楽評論『永遠の故郷 夜』の中の「最後の四つの歌」のこと。シュトラウスの曲をめぐっての評論。
 そこに前述の〈かごの鳥〉問題に関わる吉田氏の感慨深い表現があると感じたので。
 吉田氏の評論は何十年も読み続けてきたし、彼にとってもおそらく最後の四つの歌となった評論集四冊『永遠の故郷』は、それまでの評論ではないような微妙な乱れと肉声が興味深く、まだちゃんと読み切れていないのが申し訳ないのだけれど。

 私が注目した吉田氏の言葉はたとえば……。

 音楽は現在に響きながら、過去を身近かに呼び戻したり、時には未来を予感させ呼び出す働きをする。それが音楽のリアルな生態なのだ。と同時に、この巨匠(注:リヒャルト・シュトラウスのこと)最晩年の創作では、書いている音楽家は現在生きている人間であるだけでなく、過去の自分でもあるのだ。創作は幾層にもわたる意識と共に行われる。

 では改めて、こう問いただしてみよう。なぜ死への憧れを歌う音楽がかくも美しくありうるのか?美しくなければならないのか?/なぜならば、これが音楽だからである。(中略)美は目標ではなく、副産物にほかならないのである。彼ら(注:音楽を創る人たち)は生き、働き、そうして死んだ。そのあとに「美」が残った。


 これらの吉田氏の表現は抽象的?
 私はそうではないと思う。
 詩は音楽の翼を得た時点で、すでに詩ではなくなり、当たり前のようだが、音楽と化す。
 詩は、すでに私たちがひとり黙読するとき、ある個所をリフレインしているし、幼子は気に入った絵本を飽きずに何度も何度も毎日毎日リフレインする。愛する人や生き物たちの姿や声を、人は反芻する(ある種のリフレイン)。
 つまり、詩は「個人」のものとなった時、自在に羽ばたいているということではないだろうか。そして音楽はそれを聴く者の風土の中でではあるが、詩に翼を与える。風土とは空気であり、匂いのことと思う。このことも吉田秀和は同じ「永遠の故郷」で明快に述べていた。

  こと、自然について書くとすれば、はじめてヨーロッパにいって特に強く印象に残ったものの一つに、陽の光の 在り方が、それまで日本に生きていて、経験したものとひどく違うということがあった。

  薄鼠色の「影の光」とでも呼べるようなものの中にいると、その私たちを、もう一つ上から包みこむようにしているものの所在が感じられて来た。/花の匂いである。


 ここでリヒャルト・シュトラウスの「最後の四つの歌」の第一曲「春」の詩の一節を思い返してみた。吉田氏の訳・引用をお借りする。次の「お前」とは春のこと。

  私の身体のはしばしまで貫く/お前の至福の現存性!

 私が大切に思うのはこの詩句の「現存性」という言葉。しかし面白いことに、シュトラウスは、「現存性」を際立たせるためにそれをリフレインするのではなく、その手前の「至福の」を繰り返すことで「現存性」という言葉を蓮の花のように浮き上がらせる。

 さて、ここまで書いたらついでだ。詩ではない文章はどうなるのか。
 そのヒントを福岡伸一氏が朝日新聞のコラムで触れている。

  彼女(注:須賀敦子のこと)の作品は自伝ではなくどれも小説なのだ。では何が文章を小説たらしめるのか。
それは単的に言えば、「私」の物語に見えたものが、あなたの物語に転ずることによる。

個人、現存性、空気、匂い、音楽。そこには何も抽象的なものはない。


https://youtu.be/U0b9oPZdU9o (最後の四つの歌)ショルティ=ルチア・ポップ



永遠の故郷-夜
集英社
吉田 秀和

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 永遠の故郷-夜 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文

ブログ内検索

ここに在る、ということ。 そして最後の四つの歌…。 辻乃森音楽師  〜シューベルト断想&創作〜  /BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる